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タイトル:「迷宮としてのアート」
日時: 2005年1月26日(水)18時30分-20時
場所:近畿大学東京コミュニティカレッジ
パネラー:松本修(演出家)、川俣正(俳優)、長谷部浩(演劇評論家)
主催:PPTP(ポスト・パフォーマンス・プロジェクト)
共催: 近畿大学東京コミュニティカレッジ
助成:セゾン文化財団
- 長谷部 これまで、ポスト・パフォーマンス・トークのシリーズを行ってきまして、今回が最終回となります。今回お迎えしたのは、現在新国立劇場で上演中の『城』の演出家、松本修さんです。またパフォーマンストークでは、演劇ジャンルだけでなく、隣接する他のジャンルのアーティストをお迎えしてきました。今回は、川俣正さんです。先ほど話していて、川俣さんはこれまで、演劇に限らず舞台はあまりご覧になってこなかったと伺ったのですが、新たな眼でご覧になって、今日の舞台はどのようにお感じになりましたか。
川俣 僕は文学もそれほど読むわけではないし、劇とか芝居とか、ほとんど見に行かないんですね。最近は美術も見に行かなくなっているんです。それで長谷部さんから今回の話をいただいたとき、ちょっと不安にはなったのですけれども・・・。でも、最近はバタバタとした生活を送っているのですが、暗い中に3時間、4時間いて、なんだか幸せな気持ちになったんですね。やっぱり劇場の中に入ると、ある種の異空間というか、そしてそこで演じられているものを観ている幸福感を感じました。僕らは普段、テレビなどをボーっと見ていることが多いんですけれども、劇場では、ある種の設定があって・・・つまり照明が暗くなって、誰かが演じて、一つのストーリーがある。それに沿って自分の感覚とか色んなものが流れていく。それは非常に心地良いという感じがして、今日は本当に面白かったですね。で、何が面白かったかという分析を、今日は松本さんのお話をうかがいならやっていきたいと思います。いずれにせよ、美術との違いは、すごく感じました。ビジュアルアートと演劇とは――つまり演劇のドラマツルギーというか、作りというか、そこら辺のことがずいぶん違うなという感じがしましたし、演劇は、美術の面だけをとってみても、音や照明などある種の総合芸術だと思うのですが、リズムというものが非常に計算されていますね。たとえば字幕のようなさまざまな仕掛けがあって、僕も知らない分、読ませることがあったり、聞かせることがあったり、夢と現実ということだったり、ストーリー性がどんどんループになっていくことだったり、観る側と、観られる側、演じる俳優と観客を意識していますね。また、演じる俳優同士をとっみても、彼らは観客からすれば見られる側ですが、その間に観る側、観せる側の関係がある。観られている人間が、また誰かを見ている関係があったりするところがすごく面白かった。まあ、その他の感想は、追々思い出しながら言いたいと思います。
長谷部 みなさんもご承知のとおり、この舞台は、フランツ・カフカというドイツの作家の未完の小説が原作で、それはもう本当に長大なものです。これを演劇化するというのは相応の覚悟がいるわけで、マックス・ブロートというカフカの友人だった人によると、カフカ自身は、彼が死んだら原稿を破棄してくれと言って死んでいったそうです。それが破棄されないままに、マックス・ブロートの編集によって全集として刊行された。その編集の方法について、彼はかなり批判を受けたわけですけど、ある意味では、この作品を舞台化するということは、マックス・ブロートにならなくてはいけない。つまり、カフカを再編集しなければならない。松本さんも、現実に構成という作業をされたわけで、そういう意味で、原作を尊重しつつ、原作を裏切らなくてはならないという作業がまずあったわけですね。その中心となるのは――美術と無理やり結びつけるわけではないですけど――、どの場面を、会話の中だけではなくてシーンとしていかに立ち上げるかということを、当然考えなければいけなかったんだろうと思うんです。その辺りから話していただけますか。
松本 そうですね、原作、つまり原テキストとしてのカフカの『城』というものに関しては、芝居が始まる前にジャーナリズムの取材があって、なぜ今カフカなんですか、『城』なんですかという質問がありました。いつもそれらしく答えるんですが、改めて考えると、今、特別、カフカ・・・とかあんまり思ってはいません。分かりやすく言えば、演劇で遊べる題材やテキストを探していたら、カフカに出会ったというのがありました。もちろんそこにテーマが、現代性というよりも人間の普遍的な問題、たとえば人とうまく関係がもてないなとかいう問題はあります。つまり、マックス・ブロートとカフカの関係で、まあ彼らは当然ユダヤの人で、ヨーロッパにおけるユダヤ人のポジションがあって、その孤独という文脈で読むことももちろん可能です。
ただ僕はね、長谷部さんが言ったようにどこを立ち上げるかというよりも、演劇の面白さって、文学とは独立していると思うんです。文学ではやっぱりテーマを読んだり、気に入ったところ何度も読み返すというような、書かれたものの面白さがあるんですけど、演劇には、始まったら直線的に進んで3時間後には終わらないといけないという時間があり、また劇場という空間にいることの面白さ――それは舞台の光や音であったり、空間が大きく見えたり小さく見えたりというがあると思うんです。僕はその時間がもともと好きで――まあ別に劇場に限らなくて街も好きなんですけど――、さっきまでの空間がちょっと変容し、また元に戻るとか、僕はこういった劇場の体験が好きなので、そうやって遊べるものがないかなと探していたら、カフカに舞台で遊べる要素を見つけたんです。たとえば、カフカの文章には、体についての記述がものすごく多いんですよね。ストーリーとは別に、こういう人物がこういうしゃべり方をして、こんな風に見えたとか、こういう食べ方をしたとか、こういう女の抱き方をしたとか。その身体的な描写がとても面白い。それを自分で舞台化するとなると、こういう空間に置いたら面白いだろうなとか、まず考えます。音、光、空間、それから俳優の身体などの要素がまずあり、そして二番目にテーマがくる。まあ、どの時代のどの人間にも、なんとなく思い当たる節がありますよね。カフカっていうと、カミュなんかと共に戦後の不条理小説と言われるけれども、新国立劇場のちらしにも不条理だ不条理だと書いてあって、俺は不条理演劇をやるつもりはないんだと、印刷した後、新国立の人とけんかしちゃったんです。いや、『城』に書かれているのは、意味ありげで特別な不条理ではなく、身近な出来事でしょ、バイト先や学校の組織の中でもあるし、そういう出来事なんだと。そういう意味ではこの作品は不条理ではなくて、けっこう現実的なものなんです。でも、それでいながら描かれ方が、夢の記述のようでありながら現実の記述であったり、またその逆であったりとか、そこら辺がまず惹かれたところですね。
川俣 カフカは、昔、高校生のときにちょっと読んだんだけど、今覚えているのは、ある種の唐突さですね。彼の作品は、その唐突さに答えないんですよね、ずっと。なんでそこに行きたいのかわからないまま、とにかく城に行きたいとか、誰かに会いたいとか。なぜ会いたいのか、なぜ城に行きたいのかはわからないままで、物語は進んでいきます。たとえば、『変身』ではいきなり虫になっちゃうんですよね。なぜ虫になったかは、ぜんぜん説明されていない。そのわからなさが、けっこう劇的というか、劇に作りやすいかなという感じはしたんですけど。
松本 おっしゃるように、カフカの作品は、理屈を問わないというか、それがすごく自由な感じがして。なぜ彼がそういう発言をするのか、なぜこういう行動をするのかというのはお客さんの想像にまかされています。僕は日常世界の中で生きてきて、わからないことの方が実は多い。そうすると、僕はあまりリアルな表現で問い詰めること、保証することはすごく不自由な感じがするんです。『城』では、Kはなぜ城に行こうとするのか、彼は本当に測量士なのか。おそらく嘘をついているのだろうけど、それもわからない。彼はなぜ測量士って言っちゃったのか。大工と言っても、運転士と言ってもいいんだけど、たまたま測量士って言ってしまった。そうしたらそれが、なぜかわからないんだけれども、城から測量士だと認められてしまう。測量士、呼んだかもしれない・・というふうに。
川俣 起承転結ってあるじゃないですか。でもこの作品は、起もないし、結もなくて、承もひょっとしてないかもしれなくて、転だけが延々とループしていくように展開していく。どっかで起を感じさせる雰囲気をだしながらも、出発をあえて問わないというか。そして結果に向かっているようなんだけど、結果も出ないでどこかで終わってしまうと言うような、そういう面白さがカフカにあるような気がしました。だから本を読んだとき、結論が出なくてぼーっとした。これはいったいなんなんだろうなって。ところで、この舞台ですごく面白いと言うのは、その作り方ですよね。最初に台本を作らないで、延々とワークショップをやっていく。この作り方ってわりと新しいのではないか? だから、逆に役者さんは戸惑うのではないですか?
松本 役者というのはたいてい、最初に台本があって、それをどう演じるのかというところからスタートする。ただ、役者の基礎訓練の段階ではエチュードというか、本当に簡単にからだを動かす、子供のままごとのようなゲームをやったり、動物になるとか、だいたい子供の時の遊びと同じようなことをやりますね。たいてい、それが基礎訓練で、そのうち台本をどう解釈するか、どうそれを具体化・身体化するかという方向に行くんだけど。僕は大学時代にアングラ演劇をちょっとかじって、新劇の文学座にいってそこもやめたんです。文学座の舞台に俳優として出演していた頃、いよいよ本番に近づくと、自分がだめになるというか、「松本は稽古場のほうがぜったい面白かったよな」とか言われたりしていたんです。僕も演出家として俳優を見ていると、稽古場のときは面白いんだけど、だんだん形作られて、セリフが入ってきて、演出家の言うとおりになると、もちろん演出家の世界を作るってことになってるんだけども、なぜか面白さを失う。でも、稽古場ではあんなに生き生きして、面白い。ではこっちを生かせる方法があるんじゃないかと考えました。
僕は、作家的能力はあまりないので、原作はあった方が実は面白いと思っています。逆に稽古場で、原作なしに俳優と演出家が、自分たちで発想した、ただのエチュードは、ちょっと構造的に弱いなと思うんです。だからまあ、100年とか200年とか読み継がれているものは、なんらかの意味があって面白いんだろうなと。これを使って遊んでみようと。で、もとのテーマは作者が書いてるし――というか作者は書いてないけど誰かがもう言っている。そこで僕がやることは、たとえば今回では、冒頭に村のシーンがあるけど、それはブリューゲルの居酒屋のイメージの農民の祭りかなと。そういうところに異邦人が入ってきたら、どういう風に見るか、どういう風に見たら彼は圧力を感じるのかとか考えるんです。ジロジロ見るのか、意外と知らん振りするのか。でも知らん振りの空気が相手に伝わるのかとか。そういうのを何十種類もやって、じゃあこれでいこうかなと決めていくんです。だから今回は長い小説なんで、そういうのを100場面くらいやりました。
長谷部 たっぷり作って、たっぷり切るんですね。
松本 はい。それで、去年の一月くらいにオーディションやって20数人くらいのメンバーを作り、3月、5月、7月、10月と四期に分けてそれぞれ一週間ずつワークショップをやりました。そこでは、たとえばカフカに関係なく、僕があるCDの一曲を持ってきて、今日はこれに踊りをつくろうとか言って、ネタを仕込んだりしました。そして11月に稽古がはじまると、僕はいつも台本がないときには、はがき大のカードに適当にメモ書いて、たとえば「ぽつんと一人でいるK、周りに5人くらいの女が見ている」とかいうカードで、一応原作に従いながら、50くらいのシークエンスを作るんです。最終的には20場面くらいになったかな。
川俣 それは要するにシチュエーションを作るんですか?
松本 シチュエーションを書く場合もあるんですけど、たいてい要素ですね。たとえば、カフカがすでに書いた「体育館の体育室に住んでもいいと言われる」を例に出すと。体育用具のあるところで暮らす人ということだけを指定して、あとはそこには跳び箱とかあるとか・・・シークエンスというより道具立てかな。
川俣 テレビで、笑福亭鶴瓶が『スジナシ』というのをやっているのを知っていますか?
松本 いや、僕は知らないです。
川俣 だいぶん前に見たんですけど、役者が一人いて、鶴瓶がいて、そして美術があるんですよ。要するに、スタジオがあって設定があるんですよね。たとえば、体育小屋とかいうのがあって、役者がその中にいるんですよ。鶴瓶がそこに入っていくと、劇は始まるんですが、何も決まってなくって、シチュエーションだけ決めて、そこでやり取りをやるんです。その場所から出てきたストーリーを一瞬のうちに、相手とのやり取りの中で作っていくんです。お兄さんと弟の役になってみたり、いきなりお母さんになってみたり。それが非常に面白いと思いました。
松本 ええ、そういう要素もありますね。プロセスの中では。
長谷部 川俣さんはワーク・イン・プログレスということをずっとおっしゃっていますね。先ほど松本さんから、本番になるとつまんなくなってしまう役者だったいうお話がありましたが・・・。
川俣 僕もわりと近いですよ。展覧会のオープニングってだいたい僕は大嫌いで。(笑)
長谷部 どういう理由があるのか。つまり観客ないし鑑賞者の視線とか、評価を得るということが、ある意味では、表現の純粋性を奪っているのでしょうか? それとも完成ということ自体が問題なのか。
川俣 作り手が楽しいところを鑑賞者は見てない――というところだけだと思います。もっと面白いところって実際あるし、ここを見せればもっと面白いのにって思うんですよ。僕は音楽のリハーサルを聞くのが好きなんです。実際に演奏会やるとなんか硬い感じがするじゃないですか。その硬さがないリハーサルというのは、緊張感がないのかもしれないけど、その分、自由さがあるんですよね。それは、ひょっとしたら、演奏している側が、楽しんでいるからではないかと。だから作り手って、作ってる最中が、一番大変なんだけど、その分面白いわけでね。それで出来ちゃうと、演劇とかは毎日作って、構成・演出なんかも変わってくることもあるかもしれないけど、僕らの場合はできちゃったらそこに置いとけばいい。だからオープニングというのは、作家にとってはもう終わっちゃっているんですよね。一番しんどいのが終わって、もうあとはどうでも良いという感じで。見に来る人は新鮮なんだけど、作り手はもう違うこと考えたりしている。だから作っている最中は、一番緊張感もあるし、面白さもあるし、ものを作る醍醐味があるときだと思うのね。それをやっぱり伝えたいし、それが観る側にも伝えられたらいいなと思いますよね。
松本 長谷部さんも取材とかで稽古場を訪れることありますよね。稽古のほうが面白かったなということなどありませんか?
長谷部 それはありますよね。でもそれは、俳優という職業自体がそういう仕事なんだと思いますよね。つまりどこかで、演技をある水準以上にですが固定化して、20ステージ、30ステージと反復可能なところに落ち着けていく作業というのが、必ずしもあまり輝きをもっている創造的な作業ではないなと思うことがありますよね。もっとも輝かしい瞬間は稽古場にあって、身体的記憶にとどめた演技を、舞台で繰り返す。もちろん、すぐれた俳優は、本番のたった今、思いついたかのような新鮮さでそれを反復できるわけですが。
松本 初期の頃、MODEという自分のカンパニーをやっていたんですけど、作品のある部分は、キャストもセリフも完全に日替わりで、開演一時間前に楽屋で今日はキャストはこう変えて、この内容をこうやってとか言って、稽古場のまんまを見せるということをけっこうやってたんですよ。それは面白かったんですけど・・・ただ、面白いときは抜群に面白いんだけど、面白くない時は絶望的に面白くない。そうすると演出家としてはだんだん保守的になってきて、昨日と同じことするなって言ってたのに、「なんか昨日の方が面白かったから、昨日みたいにやってみて」とか言ったりしているのね。そのうちぱっと出た面白いセリフがあっても、即興だと次の日は俳優はやらない。だから僕は、「あれ言っとけば確実に面白い展開になるから、あのせりふ言っといて・・・」とか言う。これが劇作というか、作っている作業になるのかな。まあ失われるものもあるんだけど。両方面白いですね。
川俣 演劇の場合、公演で同じことを何十回、何百回やりますよね。あれって、新しいものを作っているという感覚なのでしょうか。それともやるとしても、ルーティンの中で、少しずつアレンジしていくのが面白いのでしょうか。なんで同じこと1000回もできるんでしょうかね。僕なんか恥ずかしくて、同じ作品を1000回もできないですけどね。
松本 俳優ねえ、僕もやってたし、たまにはやるけど・・・。人によって喜びとかエネルギー源はちがいますね。確実にある音とある仕草を正確に再現できることに喜びを見い出す人と、同じセリフで同じ仕草なんだけども、それをどれだけ新鮮にやれるかということに喜びを見い出す人といますよね。いわゆる古今東西の演劇論は、シェイクスピアでも、スタニスラフスキーでも、世阿弥でも、ブレヒトでも、すべて同じです。つまり、同じことをどれだけ新鮮に見せられるかという点において。だいたいルーティンになって、なぞりになってつまらなくなるから、どう鮮度を保つかという点が、すべての演劇論にあると思っています。
川俣 あと、見る側ってどういう気持ちなんですか。たとえば、毎回同じものを見に来る人ってきっといるじゃないですか。それってどういう心境なんでしょうか。
長谷部 一級の作品に限ったことですが、同じものを毎回見ても、発見があるのが不思議です。ただ、よくよく考えてみると、観客席で暗闇にいると、集中力を2時間もずっと保つことは不可能なんですよ。たとえば台詞ひとつをとってみても、全部聞いているようで、実は、3分の1、4分の1ちゃんと聞いてれば良い方です。まして舞台には、装置や衣装や照明や音響やほかの要素も沢山あるのだから。実際、舞台を見ているときに、観客は編集作業を行って切り取っいるし、本当に受け止めている情報は舞台表現のごく一部なんです。
川俣 古典落語をたまに、気が向いた時に聞くんですが、いつもほとんど同じものなんですね。なぜそれを自分が聞きたいのかなあって思うと、それで笑いたいんですよ。同じところで笑うんですね。舞台を見る側もそういう心境なのかなって思うんですが。
松本 これってけっこう負け惜しみなんですけど、演劇って永遠に完成がないんですね。戯曲がきっちり書かれていて、大丈夫だって言っても、人間って必ずとちるんですよね。間もちがうし。とちると、それはまた未完だし、別作品になる。どのような作り方をしても、俳優が調子悪いときあるし、出掛けに奥さんとけんかしてきたりとか、熱があったりとかあるので、生身である限りは一度として同じものがない。このことには、つらさもあるけど、悔し紛れに面白がっていられるってところがあります。
川俣 それがあるからずっとやっていられるんですね。演出とか構成とかって、ある程度役者さんをイメージしながら作るんですか?
松本 ええ。
川俣 そのときにやっぱり、自分のイメージどおりに役者さんが出来ないと、舞台のあり方がかなり変わってくるじゃないですか?そのとき、役者さんに合わせるんですか?それとも、どうしてもこれをやってくれって役者さんに言うんですか?やっぱり舞台では、役者さんの存在は大きいですよね。
松本 場面によって役者の比重は大きいのですが、100点満点なんてあり得ないから、稽古をやるのはその6割か7割ができればいいという感じです。どうしてもこの女優がイメージ合わないとかあれば、キャスティングを変えたりしますが、もうどうしようもないと思ったときは、他の手がありますよね。たとえばどうしてもあいつの演技に陰がないと思えば、明かりを暗くして本当に影を作っちゃうとか。後ろから光を当てると、なんとなくもの倦む孤独な人に見えてくる。あとはある場面で、俳優のこの顔や仕草を見せたくなければ、明かりをあてなければいい。残酷な手も使います。
長谷部 今日拝見していて思ったんですけれども、先ほど、松本さんから、Kは本当は測量士ではないじゃないかというお話がありましたが、私にはだんだん測量士そのもののように見えてきたんですね。街の中をつっかえされ、つっかえされ、かかえこんだ謎の答えを求めて歩くこと自体が測量だと。逆に言えば、官僚機構の方が測量ということ、世界を測量するということの実体をよく把握していて、Kの方はいわゆる機械をつかって、レンズでのぞいて、メータで測るということにひとりでこだわっているのではないか。もしかしたら官僚機構の方がKという存在をより深く把握している面もあるのではないかという風にも見えてきました。というのが今日の発見で、それは前回見たときはぜんぜん気付かなかった点です。
松本 そういう面もあると思います。まさに、カフカ自身が、大工とか料理人じゃなく、測量士にしたというのは、世界を測量するっていう意味合いもおそらくあったでしょうね。
長谷部 川俣さんの仕事は、異邦人として、知らない街に行って、ある場があって、測量をして、対象となる場、自然や測量に一筆書き加えるという仕事だと僕は大雑把に理解しているんですけれども。
川俣 僕は最初、学生の時にインスタレーションの作品を作った時、タイトルが“把捉”って言葉だったんですよ。要するに、空間自体の中に自分が入ったときに、そこで手を伸ばして触ったりするようなことなんですね。そういうことを確認したかったんですね。それが測量と言われれば、そうかもしれないですね。今回の場合はある種のシステムだったり、社会性だったり、そういう組織に翻弄されているKという感じには見えなかった。そうではなく、彼が動くと何か物事が起きる。そのことに対して、彼がどう反応しているのかというように見えました。それが自然な時もあるし、唐突なときもあるし・・・たとえば愛人を作るとか。なんであそこで愛人が必要なのかな、とか。彼が逆にそういう出来事を作っているように感じたんですよね。あるいは探っていくというより、何かこういろんなところを泳いでいくみたいな感じですね。だから、大きな城という一つの強固なシステムとか社会に翻弄されている主人公ではなく、主人公そのものが、設定がない状態で、結論がないところで、永遠と転々としている。その総体を僕らは見ているのかなと思ったんです。そのときによって、それが夢だったり現実だったりするわけですが。一日が長いような短いような、いつ朝だったかわからないけれどもいきなり夜だったりとか、朝だと思っていたら、いきなりウイスキーを飲んでいたりとか。そういったことが重層的に絡み合っていて、設定がはっきりとしていない分、イメージがどんどんふくらんでいくという感じはしました。あと、雪が、象徴的に時間軸を示している感じがしましたね。それと空間的には、いきなり地下から人が出てきたり、上から出てきたり、そういう設定も最近あるんだなあと思ったんですけど。
長谷部 川俣さんも先ほど言われたように、テキストを映写していましたが、これは舞台ではあまり一般的ではない。ブレヒトの異化効果という先例はあるのですが、必ずしもそのためにテキストを挿入しているとも思えない。むしろ観客をある主の哲学的な世界を歩かせるためにしつらえられたガイドですか?
松本 ガイド風に見せかけておいて、実は邪魔しているというか。邪魔するというのは、異化効果ですね。
長谷部 今回使われている字幕には、3つの要素がありますよね。一つは時間の経過、一つは小説の地の文の部分をある意味、映写する。もう一つはアフォリズム、カフカとは関係のないアフォリズム。この3つレベルがありますね。
松本 つまり、観客に対して、字幕を「見とかないとストーリーを追えないよ」というふりをちょっとして、最初の3枚目までは空間と時間の経過を書いたんですけども、途中からあまり関係のないものに移行していき、ストーリーとは関係のない方向に持っていっています。ゴダールのこの10年くらいの映画では、たとえば『映画史』とか、とにかくいっぱいテロップが入る。僕ね、あれって嫌いじゃないんです。ゴダールの映画は一見関連がないものを挿入していっているけど、見る側はそうすると色んなこと考える。つまり、ゴダールの近年の作品は、物語で見よう、読もうとするとなかなか難しいかもしれないけど、束縛から解き放たれてすごく自由に見ることができる。それでも、わからないものもあるけど、それも含めて自分で取捨選択できる。美術館でもなんでも、たとえばフランドル展とかではフェルメールとかの有名な絵画の前にとりあえず人は集まってくる。でも、ゴダールか誰かが言っているんだけど、作家の名前が書いてない絵が100点あったら、どういう順番に見るかというと、おそらく自分の好きなものとか、興味のある絵のところにまず行って、そうでないのはさっと通り過ぎるだろう。そういうような見方で劇場にいれたら、客席にいれたらなとか思ったりもします。でも、ここだけは見せたいと思うところは、やっぱり強調したりするんですけどね。
川俣 字幕をずっと見ていて、字が映し出されるとき、何回目だったか、役者さんが下で一生懸命移動しているところを、字幕そっちのけで、僕はついつい見てしまいました。大道具とを役者さんが持ってきたりする、あの転換のリズムも面白いなと思ったんです。
松本 あれも実はすごく練習しました。テンポが悪いとか。でも早くやればいいもんじゃなくって。あれを見ていてもけっこう面白いと思いますね。
川俣 むかし、ニューヨークでロバート・ウィルソン演出の『アインシュタイン・オン・ザ・ビーチ』ってオペラがやっていて、すごいでかい設定で、音楽がガーって鳴ってて、そこで演技しているんですけど、後ろで黒子が設定をぜんぶ直したりしているんですね。それも全部同時平行的にやっている。それが僕はすごく面白いなと思いました。見せないんじゃなくって、見せても別に舞台裏として見せればいいという話です。役者さんがイスを持ってきたりすることが、ある種の了解の中でやっているということがすごく面白いなと思って、今日は観ていました。
長谷部 イメージとテキストを読むという作業は、バッティングするというか、喧嘩しあうと思われがちですよね。今回の場合はそれがわりとうまくいっているなと感じました。川俣さんは自分の作品にテキストをのせるということは、ちょっと考えにくいですよね。
川俣 そうですね。読むのと見るのとはぜんぜん違いますからね。
長谷部 使っている頭の部位が、ぜんぜんちがう部位に切り替わってしまいますからね。
川俣 さっきも言ったんですけど、字の映写は、漫画の噴出しみたいな感じに僕は最初思っていたんですね。ましてやカフカの言葉も、変にトートロジーみたいなことばがあって、だからそういうふうに読んで、次の場面を見るという感じもありますね。あとは、音楽が、バイオリンとアコーディオンが、ある種のノスタルジーと東欧的な感じを与えていましたね。
長谷部 音と衣裳と、踊りというか所作が・・・
川俣 あと雪ね。
長谷部 そう、それらのものが、微妙な付き方というか、微妙な離れ方で、すごく面白いと思いました。
松本 あんまり説明的に雪を降らせるんじゃなくて、女と男が抱き合っているところに雪が降ったら良いなと。居酒屋のなかに雪が降ることは、本当はないんだけれど、なんか雪原で抱き合っているようにも見えるし、まあどういう風にも見える。一番楽しいのは、舞台稽古のときに、あそこでちょっと雪降らせてみてとか、明かりちょっと落としてみてとか、そういうのが本当に楽しいですね。
長谷部 劇場の中のビジュアル表現で、もし他の芸術に対して、アドバンテージがあるとしたら、川俣さんも雪にこだわっていたけど、あの雪の美しさでしょうね。あれだけはおそらく劇場独自の表現でしょう。ただの紙片が、人工的な美しさをこえて、幻想をつむぎだしていく・・・。
松本 もっとお金があれば、もっと美しい雪がねえ(笑)。衣裳に降りかかる雪は紙になっちゃうので。今、ビニールみたいなものをちりちりっとさせたものがあって、それがとっても雪っぽく見えるんですね。今回はうすい半紙の1センチ角のものを降らせているんですけど、そのビニールのだともっと本当に今の季節の雪のように、垂直にすーっと落ちていくんです。でもそれは大変お金がかかるらしくて、だめだったんですが。
川俣 雪って、ぜんぜん違うシーン、ぜんぜん違う時間軸に人をもっていく感じがして、面白かったですね。
長谷部 ラストシーンに光の通路があって、その床面にちょっちょっと雪の固まりがあるんですよね。舞台で、降る雪が美しいと思ったことはあるんですが、舞台上に降り積もった雪を美しいと思ったことは少ないです。あれは照明の沢田(祐二)さんの力ですかね。
松本 そうですね。舞台稽古で一幕が終わって、二幕に行く時、スタッフが掃除機で一幕のラストに降らせた雪をきれいに掃除しているんです。二幕は体育館で暮らしているシーンで始まるから。で、きれいに何にもなくなっている。でも、それを見ていて、掃除することないなと思ったんです。まず掃除機の音がうるさいと思ったこともあるんだけど。僕は別に、リアルに雪は戸外に降るとかあまり厳密に分けてないので、雪が積もっているあのままの状態で、3時間片付けないでいいよって言ったんです。あの雪って、歩くとひゅっと靴にくっつくし、渦巻いたりと動きが面白いと思ったんです。そういうわけで、舞台稽古のときに舞台監督さんに片付けなくていいよって言ったら、雪集めのためにバイトを3人雇っていたらしくて、せっかく雇ったのに・・・と言われてしまったんですが、いいじゃんいいじゃんって(笑)。照明の沢田さんも、そっちの方が色んなことできるからって言ったので、雪は堆積させようってことになりました。
川俣 あと、本当にびっくりしたんですけど、セリフがすごい量ですね。
松本 多すぎますかね。(笑)
川俣 いやいや、役者さんがよく覚えていると思うし、とにかくセリフがだーっと出てくるからすごいなと思うんですけど。あ、セリフは演出の方で決めているんですか?
松本 あれもワークショップの中で作りました。普通は台本化するんですが、今回は小説の一部分を・・・たとえばKと酒場のフリーダが会話する場面をやると言うんです。小説は膨大にあるんですが、その一部分を役者に渡して、これを30分くらいのシーンにしてくれと言う。で、3日後くらいにやる。そうすると僕自身は、長い小説の20ページくらいのうちでも、このセリフだけは残しておきたいというのがあるんですが、事前に伝えてはおかずに、とりあえず、俳優の田中(哲司)君や石母田(史朗)君たちに作業をしてもらうんです、。そうすると、自分たちなりの読みをしてくる。僕の読みと重なる部分もあるけど、僕がここは捨てようとした箇所をしゃべったりすることもある。すると、自分で読んだときには、無駄なセリフだとおもったところが、役者がしゃべると、「人間って実は無駄なことをよくしゃべるよね」っていうことを感じたりします。やっぱり目で活字を追うと、演出家とか作家はついつい重要なポイントを残してしまうんだけど、実はどうしたいこうしたいとかいう無駄な周辺部分を役者がいっぱい話すと、その感覚の方が面白いなあと思ったりもするんです。そうすると、そのアイディアをいただいたりすることもある。でも話の展開上、最低限、必要だなというセリフは付け加えたりはしました。こうやって徐々に、30分のシーンを最終的に10分のシーンにしていく。それである程度のシーンが出来たときに、演出助手がその残った台詞をパソコンで入力して、その後、このセリフをカットしようかというようにすすめていくんです。
長谷部 そこの面白さなのかな。合目的的というか、ノイズがないようにパッケージされた演劇が――美術でも音楽でも同じですが――、すごくこの10年くらい、芸術のさまざまな局面で完成形をめざして合理化・合目的的にしているように感じているんです。ある意味で、制作していく過程はもちろん、できあがったものからも、余計なものや猥雑なもの、意味性が低くて取るに足らないものを排除してきたという感じが僕には強くありますね。
川俣 僕なんか80年代になりますが、80年代というととにかく野田(秀樹)さんということになると思うんですけど、野田さんの言葉遊びとか最近はあまりないんですか?
長谷部 だいぶ減りましたね。筋がわかりやすくなり、メッセージが明快になってきたとはいえると思います。
川俣 野田さんに限らず、一般的に、若い劇団とか、ああいう言葉遊びとかやらないんですか?
長谷部 ナンセンスな言葉遊びは、減っているかもしれないですね。笑いは、演劇のなかでも大きな位置を占めていると思いますが、ケラ(リーノ・サンドロヴィチ)さんみたいな、身体的な面白さとか、三谷(幸喜)シチュエーションの関係の歪みみたいなものの面白さとかが増えていますね。ただ、ナンセンスな言葉遊びができるのは、劇作家のなかでも特異な才能だと思います。野田さん、井上ひさしさんを数えるぐらいで、そう簡単にまねできないのも確かだと思います。
松本 野田さんの言葉遊びって意外と独自のものですよね。言葉の音、それ自体の重なりで遊ぶのって、あまりないですよね。
川俣 たしかに面白いというか、スピード感が圧倒的にすごかったですね。あのスピード感でまくし立てられて、何言ってるんだか全然わからないんですが、何かリズムがあったという印象があります。そういうのってあまり踏襲されないものなんですか?
長谷部 言葉の音とか韻律とか速度感の面白さよりは、ちゃんと意味のある笑いとかが多いですね。三谷さんのシチュエーションコメディのように、理に落ちた笑いですよね。90年代以降そういう物語性のある戯曲が受け入れられる方向に移っていって、演劇の幅が狭くなってしまったと思ってるんですけどね。
川俣 現実があまりにも不条理な部分があるから、演劇くらいはちゃんとやろうというんでしょうかね。
長谷部 はぁ、現実があまりにも不安に充ち満ちているので、せめてフィクションを味わうときには、ちゃんと笑って泣こうとかね。演劇は、一夜の慰みものとなって、現実逃避の道具となってしまうには、あまりにも惜しいジャンルだと思っています。むしろ、現実や社会に対して盲目になっているときに、意識の変革を迫るだけの力を持っています。
川俣 テレビがあまりにもくだらないものが多すぎて、そういうくだらないお笑いの中で、演劇はもう少しちゃんとやろうということでしょうか。話は変わりますが、松本さんに、小屋の裏話が聞きたいんです。新国立劇場ではこんなことやらせてくれないとか、役者さんはもっと地味だとかありますか。そこら辺ぜんぜんわからないので。
松本 実際に新国立劇場や世田谷パブリックシアターとかが出来たのは7-8年前ですが、20年位前からヨーロッパの劇場をモデルにして公共劇場という概念が出てきました。それについては、一応、議論はありましたよね。日本では劇場は上演する、発表の場所だけれども、ヨーロッパでは、劇場は創造する場としての、アトリエだという発想があるらしいと。でも、日本では結局、劇団が自分たちの稽古場で作ったものを、たとえば貸し小屋の紀伊國屋ホールに持って行ったりという感じで今まできていたわけですね。でも、劇場の本来の機能とは、作品を作ったり、人材を養成したり、色んな人たちが共同作業する場所なんではないかという議論がなされました。僕は世田谷パブリックシアターがオープンして5年間は、芸術監督をつとめていた佐藤信さんと、常任演出家として仕事をしたんですけど、佐藤さんは人事異動で劇場を離れて、劇団に戻ったんです。『城』と同様のワークショップを重視した作り方で、『アメリカ』を発表したのは、世田谷(パブリックシアター)でした。で、今回はたまたま新国立劇場だったんですが、実は新国のうわさはだいたい聞いていました。僕の友人、坂手洋二とか、鐘下(辰男)君とか、平田オリザとかが、新国立はなかなか大変だよ、松本さんすぐ切れるからって言ってました。(笑)打ち合わせの段階は非常に穏やかで、そうでもないなと思ったんですが。
川俣 新国立の監修する側がいろいろ意見言って来るんですか?
松本 まず制作ですね。一応ワークショップで作りたいからと、新国立の演劇部門芸術監督の栗山さんとお話した時、せっかくだったら劇団でなく劇場で出来るものということになりました。ここだったら立派な稽古場があるし、音響さんや照明さんなど劇場付きのスタッフもいるし、作業場もあるし、その人たちと一緒に作りたいといったら、良いですねと言われて。じゃあまずどういうメンバーでそれをやるかというと、長期間のワークショップに参加できる俳優であるのが条件なんだけどという話の段階になったら、制作サイドから「いや松本さん、これだとお客さんがなかなか入らないから、この俳優さんはどうですか。」と、いっぱいテレビに出ている俳優さんを提案してくるんです。「でもこの人テレビで忙しくて、ワークショップに、そんな長い期間出られないんじゃないかな」と言ったら、新国の人は「じゃあ交渉してきてます」と言ったんだけど、やはりだめでした。(笑)そうしたら、「最初の方のワークショップは出ないで、後期の方だけ出るのではダメですか。」と言ってくるんです。で、僕は、「いや、最初の方のワークショップが大切なんです」と返す。だけどふつう、忙しい俳優さんは何ヶ月も拘束されたらたまらないだろうし、そうすると当然、長期間のワークショップに出られる俳優さんに限られるということに、ようやくなりました。今回、田中哲司君や他の俳優さんに関しても、彼らが所属している事務所にとっては、テレビとか映画とか出てくれた方が絶対に金銭的に良いんだけど、彼自身がやってくれると言って、社長さんも理解してくれた。まあふつうなかなか難しくって。本当は、僕もやってみたい俳優さんがいたんだけど、スケジュール的に難しい。すでにシアターコクーンの舞台が決まってるとか言われました。結果的にああいうメンバーになって、うちのお袋もちらし見て「知ってる人いないわね」とか言っていたんですが。(笑)新国の人は、キャストのことで、このぐらいの役だったらワークショップ出なくてもやれるんじゃないかとか、ギリギリまで言っていました。
川俣 それはポピュラリティーというか、集客のことを言っているんですか?
松本 おそらくそうですよ。
長谷部 テレビに出ている人を入れてくださいということですね。
松本 そういうことですね。あと劇場のスタッフが、ワークショップに熱心には来なかった。自分たちの仕事が――栗山さんの演出とか鵜山さんの演出とか――が忙しいから、ワークショップには10分とか30分とかだけのぞきにくる。で、僕はここにこういう大きな階段を作りたいんだけどどうだろうとかいうと、最初はとにかく頭ごなしに「いや無理です」「うちではやったことありませんから」とか言って、だいたいNGが多いね。こんな、アーティストとしてのやる気を失わせる劇場ってすごいなと思いましたね。でも新国立劇場に花道つくったのは初めてですし、がんばったけれども。で、新国で上演される芝居が、どちらかというとリアリズムの芝居が多いですよね。そうすると、どうしても、今日みたいな舞台の作りだと、スタッフはなかなか対応できない。役者が動かせるものとか、遊べるものが必要なんだけど、そういうものをなかなかそろえてくれないんですね。
川俣 かなり保守的というか、スタイルとかフォームが出来ているもの以外のことはあまりやりたくないということなんでしょうかね。それとワークショップって厄介じゃないですか。時間もかかるし。そういう厄介さみたいなものを楽しむ感覚がないんですね。
松本 そうですね。ワークショップをやっている時に、もちろんつまらないこともあるんですよ。変てこなことばっかりやっていて、これ本当に芝居になるの?っていうようなことが多いんです。だからそのことをわかる制作の人とか技術者がいてくれるといいんだけれども、正直言ってそういう意味でちょっと勉強の足らない人たちだなあと思いました。
川俣 あと、演出して劇を作るときに、ポピュラリティーというか、ある程度の集客はもちろん考えると思うんですけれど、それと作品のクオリティとの間で、板ばさみになるだろうと思うんです。たとえば僕らの場合、美術の場合は、個展とかではお金とるわけじゃないから、その点自由にできるんです。だから見る人に対してけっこう横柄なことができるんだけど、やっぱり演劇の場合はお金をとる。お金をとるってことは、ある種の責任がありますよね。観客を楽しませるってことと、作品をある程度のクオリティまで持っていきたいということと、その辺のジレンマっていうのはいつもありますか?
松本 ええ、ありますね。
川俣 で、それをまた、小屋の方から言われてくるってこともありますか?
松本 ありますよ。だから僕は、たとえばコクーンだとか、松竹や東宝であるんだったら、それは当たり前だと思うんですね。つまり、舞台で商売をしているんだから。でも。パブリックシアター(公共劇場)の役割って言うのはちょっと違うんじゃないかなと思うんですけど。どうですか、長谷部さん?
長谷部 ただ、配役の問題でいうと、ちょっと難しいのは、ポピュラリティーがあるから、テレビに出ているから必ずしも悪い俳優だとは限らないから・・・
松本 もちろん、そうです。
長谷部 そこはまた難しいですよね。ポピュラリティーがあって、テレビに出ていて、でも良い俳優っているわけですから。たとえば大竹しのぶさんとかね。だからその辺の按配が難しいですね。すごく極端に言えば、たとえば新国の中劇場の2000人近い規模で、一ヶ月公演の間に客席をいっぱいにできる、しかも舞台の中心をになえる実力を持った俳優というのは日本に10人くらいしかいないですからね。で、その人たちは当然売れっ子なわけです。そういう人たちが半年のワークショップに付き合うのはやっぱり現実的に無理です。ただ、新国立劇場は、中劇場だけではなく小劇場を持っている。今回、『城』を上演したのも小劇場ですよね。新国立劇場は、ザ・ピットのような企画を小劇場で立ち上げていますが、松竹や東宝とは全く違ったアプローチの演劇もあっていいわけで、それを容認するというか、むしろ選択肢の一つとして積極的に提供するのが新国の役割だろうとは思います。ワークショップだけが新国の役割ではないし、また森光子主演の芝居だけをやるのも新国の役割ではない。今は既製の、筋がちゃんとある、旧新劇的な演目の地味なものを取り上げることをやっていますが、レパートリーに新国はがあるのではないかとは思います。松本さんは文学座出身だから、大丈夫だと思われちゃったんじゃないですか。(笑)。
松本 ああ、そうなのかなあ。
長谷部 川俣さん、今度の横浜トリエンナーレのディレクターは、やっぱり巨大な官僚組織との戦いをこれから強いられることになるんじゃないですか。
川俣 そう、今はまさに稽古と同じように右往左往してて、どこに何を持っていったらいいのかわからない状態です。自分でアーティスト呼んできて、自分でタクシー手配して、自分の選択しか信じられないみたいな、もう誰にも頼まないという感じです。もうそれで見せていくしかないなという思いはありますね。他人を当てにすると後でがっかりするから、もう当てにしないという前提でやるしかないかなと。やっている奴は見っけもんというぐらいのあきらめが、ある意味での笑いみたいになれば、そこまでいけばいいかなと思っています。ところで、ぜんぜん関係ないですけど、世田谷パブリックシアターで対談か何かやるんですよ。あれはインタビューなのかな?今来てる人かな、僕ぜんぜん知らないんですけど、外国の人で、その人が今度劇を作るらしいんですよ。それをアビデの方に持っていくらしくって、どうも僕がその美術をやらなきゃいけないみたいで。
長谷部 舞台美術やるんですか?
川俣 みたいですね。(笑)ファックスがきただけなんで、僕もちょっとわからないんですけど。
長谷部 舞台美術は初めてですか?
川俣 えーと、ダンスのステージは一回やったことあるんですけどね。劇は初めてですね。
長谷部 演目は?
川俣 わからないですね。
長谷部 演出家の名前も?
川俣 演出家の名前すらわからないですね。まだちゃんと読んでないので。
松本 それは楽しみですね。
川俣 今日のトークがあったからそういうふうに言ってきたのかなあと、一瞬思ったんですけど。
長谷部 川俣さんなら、コンテンポラリーダンスならまだ分かるような気がするんですけど、演劇ですと、大きな衝突が起きそうで面白いですね。
川俣 いっとき、転形劇場でアーティスト使ってつくっていた舞台は見たことあるんです。でもやっぱり、舞台というのは、設定がはっきりしてるから、舞台美術は見える方向とかいろんな意味で設定を作っていかないといけないですよね。そこら辺はやはり、舞台美術と、美術のインスタレーションとはやはり違いますよね。
長谷部 また、もの自体の力が強すぎるとね。川俣さんは強いタイプの作家なので。演出家も大変でしょうね。
川俣 コラボレーションというのは面白いと思いますよ。やっぱり、音があって、映像があって、照明があって、演劇があって、総合芸術なので、そういう意味ですごくいろんなセンスや感覚が研ぎ澄まされないと難しいな思います。ましてそれが個人でやっているわけでなく、集団ですからね。そのコーディネーションというか、アレンジメントというのは、個人でやっているよりははるかに大きいものがありますよね。また、舞台って一瞬じゃないですか。パフォーマンスもそうなんだけど、瞬間芸というか、その時にそこで間違ったら、修正きかないじゃないですか。僕らなんか、美術では、何か落ちたら直せばいいだけなんだけど、演劇ではそこで何かあったら、そこで演じちゃったら、それしかないですもんね。そのための身体的な準備とかトレーニングは、すごくコントロールしていかなければいけないですよね。そういう大変さはあるかなと思います。
長谷部 演出家って、時間の管理者っていう面もすごく大きいのではないですか?さまざまな光とか、音とか、俳優とかすべてを統合するための時間のコントロールを、演出家が行っているわけですよね。インスタレーションではもちろん時間がかかるんだけれども、そこにあまり延びたりする時間などはない。でも舞台の演出家の場合は、すごくぎゅっと緊密な時間と、延びた時間と、さまざまな幅を作っていかなくてはいけないという点が、一番違うところかなと思いますけど。
松本 今回舞台美術をやったのは島次郎さんで、僕が20年前に演出を始めて以来、一番仕事をした回数が多いかなという舞台美術家です。で、むかしは本当によく稽古場に来て、終わったあとお酒のみながら、「こんなことできますかね、予算これしかないんだけど」とかよく話してたんですけど、最近は島さん忙しくなっているから、このあいだも直前まで『エレクトラ』やってたために、稽古場にこれなくなったのね。ああ島さんも偉くなっちゃったんだなと、皮肉じゃなくって思いました。そして、ワークショップなのに、島さんが「松本、早く本、作って」って言うんです。今回、俺は、本がないからワークショップをやっているのに。島さんの気持ちはわかるんだけどね。本当は、稽古のだらだらっとした時間を何日間かずっと見ていて、ここにこういう階段作ったらどうだろうとか、提案してくれたもっと面白い仕事ができるのかなあと思ったりしました。これも・・・まあ、お金かな?
長谷部 特定の10人・・・特定の5人の美術家に仕事が集中してますね。栗山さんも言ってたけど、舞台美術家って台本読まないで美術つくるって。だから本くれって言ってるだけまだ良い方です。それは大きな問題ですよね。
川俣 仕事が集中してしまうということは、それだけ舞台美術の人材が少ないということなんでしょうかね?それと人材を育成するには待てないみたいな。
長谷部 ないんですよ、舞台美術の学校自体が。武蔵美大に空間造形科があるくらいで、舞台美術に特化した学校ってあんまりないですよね。だから装置家になりたい人は、たいてい留学したりしますよね。あるいはスタッフに入るとか。それも大きな問題です。では、時間もおしてきましたので、皆さんの中でご質問があればどうぞ。
質問A 今日舞台を拝見したんですけれど、本当に楽しい舞台でした。今日おっしゃったことがちゃんと表現されていたと思うんですけど、役者さんの気持ちのリズム感の楽しさをものすごく感じました。それとおしまいの方でも話題になってましたが、俳優さんを選ぶときに、スケジュールが忙しい、テレビに出ている、映像で人気のある人を劇場が選ぶんですよね。新国立劇場の俳優の選定基準について、あの人を何で選んだのかと尋ねると、NHKの大河ドラマに出ているからとか言うんですが、そういう俳優さんはセリフがまだ弱い。生身の人間の劇場ってところで、セリフが伝わってこない。僕なんか安い席で見るでしょ。そうすると上の階まで、セリフや表現力が伝わってこないんですよ。でも劇場の先生方は良い席で観るから、その俳優さんは賞とかもらえちゃったりするんですが。とにかくお客が呼べるという理由で俳優を選んだらしいんですが、そのあたり、演出家の先生はどうでしょう。映像の役者と、舞台の役者ってちがうんじゃないですか?日本にはそこのけじめがないから、舞台でろくすっぽセリフの言えない、動けない役者が、でもドラマじゃ主役がはれる、視聴率も稼げる。
松本 僕の立場から言えば、今おっしゃられたようなことで、僕の言うことが説得力を持つようになるといいと思っていますが。僕個人は戦おうと思っています。
質問B 新国立でテレビ女優とか起用したのを何本もみていますが、今日松本さんが演出されたアンサンブルといいますか、全体の群像から沸きあがってくる力というものは、それらの舞台とはやっぱり違いますね。テレビのタレントさんが出てくる芝居は、なんであのテレビ女優を使わなければいけないのかと、いつも失望してるんです。こういうことは、観客も声を大にして言う時だと思うんですね。観客にとって今は正念場のときで、劇場に対してもバンバン意見を言うようにしないと、せめてしょうがないじゃないかと思ってるんです。今日見せていただいた舞台では、何に面白さを感じるかということですが、僕なんか頭がとろい方ですから、何を伝えているかということよりかは、皮膚感覚的に鳥肌立つような舞台が、今そこに出現したということに面白みを感じるんですね。最近そういう芝居が本当に少なくなりましたね。このあいだの『アメリカ』も今回の『城』も、鳥肌立つ瞬間が何度もあって、今ここで演劇が出来上がっているなという感覚を受けました。そういう意味でうれしい、見ていて本当にうれしい感じがこみ上げてくるようなお芝居だったですね。
質問C ものの作り方というお話が面白かったんですが、ものを作るプロセス、つまりワーク・イン・プログレスと、最終的な作品が出来上がったというところについて教えていただきたいのですが。プロセスを公開して、一番作り手が面白いところを観客と分かち合うってことが、演劇でもないかなと思ってまして。つまり稽古場でのプロセスを公開するというようなことはないでしょうか。
松本 僕はね、世田谷パブリックシアターで『アメリカ』を上演した時、プログラムの中に稽古を見せるという企画を入れましたね。たまには仲間だけでなく他人の目も入った方が、俳優にも刺激になるし、いいんじゃないかと思って。何回か、区民の方々に公開稽古というのをやりました。今回は、そういう企画自体なかったし、僕も作るのが大変だったんだけども、まあ演出家によると思いますが、僕は割と稽古を見られるのは平気ですね。
川俣 俳優さんの中で稽古を見られるのを嫌がる人とかいませんか?
松本 嫌がる人はいますね。ワークショップで僕はいつも、俳優に、得手なことはやらなくていいから、不得手なこと、無様なこと、恥じなことをどれだけやれるかってことを言ってます。すごく不得手なことをやって、失敗して、みんなでそれをちゃんと白ける、みんなで冷たい目で見てあげるということ、本当に冷ややかな空気を作ってあげるっていう時間も本当に必要だと思っているんです。でもそれはやっぱり、俳優にとってはあんまり他人には見られたくないって思うでしょうね。でも、そういう時間がないと、上っ面の得意技だけでやると、演技が弱いというか、新しいものは出てこないなという気がします。
長谷部 稽古場を見せるというのは、プレ公演だとか発表会で見せるのとはやはり意味が違うと思うんですが、松本さんの場合、どちらの方が意味があるとお思いですか?
松本 えーっとね、日本ってプレミエ公演あるけど・・・
長谷部 もうちょっと前、たとえば一ヶ月前とかに公開稽古があったとしたら・・・
松本 僕はいいなと思いますよ。見せた後、もちろん感想聞くけれども、他人の目が入っただけで、客席で発見することがあります。それは客席の反応を見るというのではないんですね。劇場って200人なら200人、300人なら300人に見てもらった、この空気が劇場なんで、からっぽの舞台稽古って劇場としてはまだ未完成なんです。見られている中で、そういうことをするとこういう見え方があるんだなとか、発見があります。そういう機会がプロセスの途中であると、そこでもう一回作り直せる作業ができますね。だから本当は、プレミエ公演を一回やって、その2週間後に初日があけられれば、すごく良いなと思うんですが。
川俣 その作るプロセスなんですが、客に対してけっこう失礼なところがあります。僕の作品なんか、お客さんにいつごろが見頃ですかと聞かれることがあって、いつも続いているから同じですよって答えるんですけど。桜じゃないんだからいつ頃が満開とかないので。たまにもう壊しちゃっている時にお客さんが来たりして、「これは作ってるんですね」とか言われることもあります。プロセスを見せるということは、見る側に対してはちょっと失礼かなとは思うけど。でもまあ、それはそのような設定でやるしかないかなとは思ってますけどね。
質問C じゃあ制作っていうのは、ずっと続くものなんですか?
川俣 終わるというのもないし、たいていは色んな条件でもって、そこで中断というか途切れちゃう感じです。延々とだらだらと創っていく中で、どこかで、これくらいで一回ちょっと終わろうという感じなので、完成してこれが100%自分を出し切ったという発想はまずないですね。それがあったら、もう次はないんじゃないですかね。かれこれもう20余年、いろんな作品を作ってきていますけど、僕の場合ずっと一つの作品をまだ作り続けているような感じがしてます。一つの劇をずっと作っているような感じですね。
質問D ワークショップで作品をつくるということに興味があるんですけど、公演プログラムに俳優さんたちの作品に参加した感想とか載っていて、「楽しい」と書いてあるんですけど、実際にはすごく大変だったのではないかと思うんです。そういうワークショップは、時間かかるし、リスクもあるし。個人の発想から出るエチュードっていうのは弱さもあるとおっしゃっていましたが、こういうワークショップを中心とした作品の作り方は、今後も続けていかれるのですか?
松本 僕は、ワークショップでは発見することあるし、面白いし、続けたいなと思っています。いつもじゃないですけどね。作品によっては作りたいものもあって、その場合、この戯曲をどう配役するか、演出するかという楽しみもあるのは事実です。でもやっぱりワークショップで作っていくという作業は、きっと一生続けていくだろうなと思います。
質問D ワークショップをやったのは、『アメリカ』に続いて二度目ですか?
松本 初期のMODEの作品では――もう16年目ぐらいなんですが――、ほとんどワークショップで作っていました。大きな作品とか、劇場とやるのは2回目ですけどね。劇団でやるのは基本的にずっとワークショップで作っていました。
質問D あとこれもお聞きしたいのですが、作家はセリフを作ってくるじゃないですか。そのとき、松本さんがこれじゃだめだなと思っても、俳優さんがそこにこだわった場合はどういうふうに調整していらっしゃいますか?最終的に上演するにあたり、松本さんの判断と俳優さんの判断とは、どのように調整されているのですか?
松本 最終的には僕が決めます。僕の責任だから。「君、見れないでしょ。見ているのは僕だから」って言って。それは特権的なあれで。
質問D そういうとき、俳優さんでも怒ることはありますか?
松本 ありますよ。その場合は、じゃあ表現の仕方を変えてみようかとか、なぜそのセリフがこだわるのか、そのセリフがない場合のシーン、そのセリフを言った時はどうなるのかなど色々なやり方を試してみます。またどうしてもそのセリフを言うんだったら、別のシチュエーションに置き換えようとか、別の息の使い方をしようかとかですね。試しているうちに、お互い新たな発見があったりとかするけど・・・こんちきしょうとか思っている俳優さんはいるかもしれないですね。でも偉いとかいうんじゃなくて、そういう役割が演出家だと思うので。
長谷部 演出家には絶対的な権限があるという了解が、まず稽古場にあるので、そういう意味では、演出家と俳優は対等の立場ではないですね。
松本 そうですね。むかし柳美里っていう作家、いまは芥川賞作家ですけど、戯曲を書いていた時期があって。彼女が『魚の祭』っていうのを書いて、彼女のオリジナルに僕がどんどんマジックでテキストレジをして、手を入れてったんです。でも彼女は自分が一生懸命書いてきたセリフやト書きをカットされたりするとがっかりするから、まず君の書いた戯曲をやってみるよって言うんです。そして役者たちに全部セリフを覚えてもらって、演じて、その後で僕のテキストレジ案をやってみるんです。で、どっちが面白いと思うかって聞く。俺のやった方が君の言いたいことが伝わるんじゃないと言うと、あーそうかと彼女は納得するんです。このように、手数をかけて、カットしたり、書き直したり、そういう作業がありましたよね。時間はかかりますけど。
長谷部 当然、権力の裏側には責任があるわけで。芝居が悪かったら、それは役者の責任ではなく、演出家の責任ということになりますからね。今日は長い芝居の後に、お2人にはわざわざお越しいただき、また皆様にもお集まりいただき、どうもありがとうございました。
松本修
 
川俣正 長谷部浩
撮影/原田愛(東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻)
Since 2002 All rights Reserved.
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